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Veoh.comに沖浦啓之監督、押井守脚本の「JIN-ROH」のドイツ語版ビデオクリップがアップロードされていた。



この作品は、アニメーションとしては、私の最高のお気に入りの一つである。もちろん、日本映画だが、1999年のファンタスポルト国際映画祭で審査員特別大賞と最優秀アニメーション賞を受賞するなど欧州を中心に大変に高い評価を受けた。このビデオクリップは、ドイツ語吹き替え版であるが、ドイツ語の硬質で鋭く尖った響きが、作品に一層の緊迫感を与えているように感じられる。欧州での高い評価は、作品の完成度の高さもさることながら、そこにグリム童話の「赤ずきん」のテーマが通奏低音のように流れていることとも無関係ではあるまい。

ストーリーは昭和30年代の不安定な日本の社会情勢を背景に、都市ゲリラ化した「セクト」と呼ばれる反政府組織と、それを取り締まる制圧部隊である「首都圏治安警察機構」との対立を描いたものだが、それは単なる物語のうしろだてで、組織に縛られた個人が、その内面に抱えざるを得ない矛盾と葛藤こそが、この作品のライトモチーフなのだと思う。組織の冷徹な論理と個人の人間的な心情の対立という不条理が、ノスタルジックなリリシズムの中に厳然として立ち現れ、物語は、もはや回避不可能な終局へ向けて一気に収斂するのだ。

この作品を観て、頭に浮かぶのはライプニッツの「可能世界」という考え方だ。戦後十数年の日本が、もしかしたらそうなっていたかも知れない架空の現代史が、そこには描かれているように感じられるからである。事実、私が小中学生だった頃には、日米安保闘争や、東大の安田講堂事件があり、高校に進学しても、ヘルメットをかぶり「タテカン」の前で「アジビラ」を配っていた上級生の姿は、珍しいものではなかった。大学に入学した後、最初の二年間を過ごした教養課程のキャンパスで、ある日の昼休みに過激派の内ゲバがあり、鉄パイプでめった打ちにされた活動家が死亡するのを目にしたことすらある。こうした実体験があるからか、作品に妙なリアリティを感じてしまうのかもしれない。

私自身は、上記のようなゲバルトの主役であった団塊の世代より少しだけ若いが、彼らの当時の社会認識は、どうしても理解できなかった。武力闘争により社会の矛盾が解決できるなんてとても考えられなかったし、世の中が少しだけ豊かになり、治安が改善されつつあった時代に青少年期を過ごしたことから、社会問題に対する関心がそもそも希薄だったこともあるだろう。マスコミは、私たちの世代を「ミーイズム」と呼び批判したが、そんなことは当人達にとっては、どうでも良いことであった。

これは、存外、団塊の世代の皆様についても言えることではないかと思う。結局、現代日本の中枢をで権力をふるっているのは、まさにこの団塊の世代の方々だからである。ミーイズムの世代と異なるのは、歩道の敷石や火炎瓶を機動隊に向けて投げつけるという通過儀礼を経なくては、自ら社会を変えるという妄想から抜け出せなかったことだけだ。彼らは、そうしたことを通じて、自らの方法論によっては、結局何も変えることができないとういうことを学んだ。そうして熱病から回復したかのような涼しい顔をして、かつて彼らが蛇蝎のごとく嫌っていた官僚機関や資本家の元に就職したのである。まるで餌をくれる主人におべっかを使う犬のように。変わったのは彼ら自身であったというのは、歴史的皮肉だろう。変わらなかったという条件での可能世界もあり得たかもしれないからである。まさしくJIN-ROHの世界のように。


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