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すぎ丸?かえで路線

20081129.jpg週に一度のペインクリニックでの治療を終えて、西荻窪駅北口を通りかかると、何やら大変な人だかりである。区の職員とおぼしき人達が、書類を配布しているので貰ってみると、「すぎ丸」という区営バス路線の開通式とのこと。


雨と曇り空の毎日

20081025.jpg ここ数日、天候が悪く、雨が降ったり止んだりだった。金曜日は、自宅近くの駅で下車すると、土砂降りの雨で、プラットフォームの屋根に当たる雨粒の音が、耳を塞ぐほとであった。隣のホームの電車も霞んで見えるほどだ。

旧車で通院

20081004.jpg 以前に「旧車趣味」で紹介した知人の車で毎週土曜日にSGBの治療を受けるために通院しているペインクリニックまで送ってもらった。車内で撮影した携帯のムービーがこれ。15fpsだとさすがにコマ落ちが激しい。

旧車趣味

20080614.jpg知人がフルレストアした旧車を見せてくれた。かれこれ30年も前に製造されたイタリアの小型車だ。(この動画を見て車の名前が判る人はかなりのマニアだろう) 外装は、オリジナルの茄子紺、内装は目が覚めるようなサーモンレッドで、いかにもイタリアンだが、乗せてもらうと、オープントップでもありこれまた実にスパルタンな乗り心地であった。蓼食う虫も好き好きとは良く言ったものだ。
20080608.jpg
梅雨入りしたばかりなのに、昨日は五月晴れで午後からは気温が高くなった。外出を午前中に済ませ、午後は冷房を入れて影印本で和歌を読んで過ごす。
夏歌の中で気に入っているのを二つほど。

右は、藤原定家筆の「古今和歌集」に収録されている
「さつきまつ(松)花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする」
というよみ人知らずの歌だ。折に触れて引用されることも多く、古典落語などでも前振りに使われていたりする。

歌意については、特に解説の必要もないほど判りやすいが、予備知識として、当時の貴人は、それぞれ気に入った香りを衣類に薫きこめていたということは知っておく必要があるだろう。

ここで言う「花橘」というのが現代のいかなる植物に対応するのかについては、いくつかの説があるということだが、柑橘類系の「コウジミカン」などとする説が有力らしい。初夏に白い花を咲かせるそうだが、私は未だ実物を見たこともないので、香りについてもわからない。ちなみに奈良、平安時代を通じて、この花の香りは、過去を想起させる働きがあるとされていた。

作者の性別についても不明だが、この歌が引用されている伊勢物語の六十段では男性の作とされている。

さて、左側は、式子内親王の歌で、新古今和歌集の夏歌として収録されている、
「かへりこぬむかしをいまとおもひねのゆめのまくらににほふたちばな」
という歌である。頭書きに「百首歌奉りし時夏歌」とあるが、これは後鳥羽院の命で正治二年(1200年)に詠進されたものであることを示している。式子内親王は、建仁元年(1201年)に薨じているので、死の一年ほど前、50歳を過ぎた頃の作となる。

両者共に、「橘の香り」による追憶をテーマとしているが、成立年代の違いもあってか、私にはこれらの歌から受ける印象は全く異なる。

前者の「さつきまつ...」の方は、技巧的にも発想的にもナイーブで、「か(香・嗅)」が三度も出現するところなどは、稚拙な印象すら受ける。であるにも関わらず、この歌が、勅撰和歌集に収録され、今日まで人口に膾炙しているのは、その素朴さと、ふとした追憶が五月を待つ明るい空の下で未来に向けて解き放たれてゆくような大らかな気分が感じ取られるからではないか。少なくとも、作者は橘の香りに誘われて追憶に耽りつつ、決して将来に対する希望を捨ててはいない。そこには人生に対する健全な姿勢を読み取ることができる。よみ人しらずの作者は、当時それなりの人生経験を積んではいたものの、人生の盛りはこれからで、自らの運命に対する期待感の中で毎日を送っていたのではないかと私には察せられるのだ。

他方、式子内親王の歌は、前述のように死の一年ほど前の作である。彼女の時代は、平家物語や方丈記に見られるような乱世であった。事実、彼女自身の同母兄弟である以仁王は、平家討伐の首謀者との理由で処刑されている。

こうした時代背景と彼女の置かれた境遇、そして自らの死期が迫っていることを悟ったかのような人生観が、この歌に何とも名状しがたい深い陰影を与えているように思う。技巧的にも、当時の「本歌取り」の手法が用いられており、前述の「さつきまつ...」以外にも類想歌が複数指摘されている。

しかし、このような表現形式上の問題は、この歌を鑑賞する上でのほんの一部に過ぎない。同じ橘の香りを主題に据えながら、この歌には前者の偶然によるほのかな追憶をはるかに超えた過去に対する強い想いが感じられる。それはまるで、人生の過ぎ去った時間が、彼女の精神を巨大な力で吸い寄せているかのようである。そこには、楽しみや悲しみだけではなく、今となっては叶えることが不可能な物事についての後悔と慚愧の思いが、暗い情念となって渦巻いているのだ。

この思いは、裏を返すと近い将来に迫った死に対する、抜き差しならない緊迫感の表れでもあろう。事実、この歌を詠んで一年後には、彼女は世を去っているのである。人間とは、いつかは死ぬ存在であるということは、古今東西誰一人として受け入れざるを得ない厳然とした真実だが、それが具体的な事象として立ち現れ始めた環境にある一人の女性の、鋭く研ぎ澄まされ張り詰めた精神の有りようが、この一首の中に凝縮していると言ったら大袈裟であろうか。

最後に、音韻学的な感想を少々。

両歌の各句の最初の音と最後の音を比べてみる。

つきま なたちばな をかげ かしのひと でのかぞす

へりこ かしをいま もひね めのまくら ほふたちば

初音は、似たようなものであるが、前者は、上の句が総て「あ」音で始まっているためか明るい印象だ。
注目すべきは、終音で、前者が「つ」「の」「ば」「の」「る」とばらついているのに対して、後者は、「ぬ」「と」「の」「に」「な」と第二句を除くとすべて「な」行である。個人的な感想に過ぎないのかもしれないが、「な」行の音は、「ない」「ノー」「ノン」「ニエット」と各国語でも否定を表すのに用いられていることが多いように思う。各句の語尾のほとんどが「な」行で終わっていることも、この歌に仄暗い、退嬰的な印象をもたらしているのではないだろうか。


20080524.jpg 過日、記事を書いたminimal player改造版であるが、早速バグ報告をいただいた。プログレスバーのスライダーを最前方に移動させると動作が不良になるというお粗末なものである。しかし、このバグを吸収するのは、結構面倒だった。そもそも、いいかげんなコーディングをしているので、自業自得ではあるが、ソースコードを全面的に見直さなくてはならなかった。まだ、隠れたバグが沢山ありそうだが、とりあえず上記のものだけでも吸収したので、試験を兼ねて動画を掲載する。バグ吸収のついでに、再生の秒数表示機能も付け加えてみた。


カーネーション

20080511.jpg 今日は母の日なので、近所の花屋でカーネーションを買って、母君に贈呈した。

それにしても、一言でカーネーションと入っても、最近は色々な種類もものがある。トラディショナルな桜色だけではなく、黄檗や菖蒲色のようなのもあって、組み合わせて花束を作るとなかなか面白い。

知人の要請で、細かい機能改善を実施。ブログの記事に埋め込む際に、アプリケーションエリアが白だと地の色合いによっては、見栄えが悪いとのこと。とりあえず透過表示にして、コンポーネント以外は地の色が透けて見えるようにしてみた。 確かに最近、凝ったデザインのページが増えているので、この方がすっきりとするようだ。(以下に表示してあるのは、画面のキャプチャなのでボタンをクリックしても動作しません。)

transparent.jpg


20080507.jpg

細かいところが気になったので、あれこれ修正をした。フレーム用の *.jpg 画像のURLを指定するテキストボックスの仕様を *.flv ファイル指定用のそれと合わせた(というか、前回の修正で忘れていただけ)。

公開した途端にバグ発見。帯域の狭い回線を使用している方から、動画のロードが終了しないうちにプログレスバーをいじくるとFrexアプリケーションがフリーズするとの連絡があった。確かにADSLだとロードに時間を要するので、そのような事態が発生してしまう。昨夜遅く判明したので、とりあえずプログレスバーでのコントロールを無効化して、ソースを修正することにした。

吉祥寺のショップ

20080505.jpg 昨日の子供の日は、あいにくの曇り空で、午後からは小雨も降った。私は、晴天で気温が上昇する日よりも、このような天候の日の方が体調が良いので、午前中から吉祥寺に出かけてみた。

minimal video maker

9fingers.jpg こんな感じでFlashビデオにフレームを付けて再生できるアプリケーションを開発してみた。右のサイドバーのトップにリンクを張ったロゴを表示してある。デジタルフォトフレームのビデオ版といったところ。


TETRIS:数理と直感

TETRIS.JPG
雨の一日だった。肌寒いので軽く暖房を入れた部屋で、テトリスで遊ぶ。プラットフォームマシンはNINTENDO DSだ。ただし、ゲームカートリッジは、DS専用ではなくゲームボーイアドバンス用のものだ。DS専用のものも手元にあるが、BGMが気に入らない。アドバンス用のBGMの、ちょっとミニマルテクノ風なのが好きだからだ。

元々、ポータブルゲームマシンには興味がなかったのだが、例の「大人の脳トレ」ブームでDSを衝動買いしてしまった。しかし、単純計算を延々と繰り返したり、画面に表示される単語の記憶数を競ったりして、「脳年齢」なるものの若返りを図るというこのソフトの馬鹿馬鹿しさに気付いて、やる気が失せてしまった。

最近のゲームソフトは、CGを駆使した高精細かつ高速なものが多いようだが、正直言って、どこが面白いのか良く判らない。やはりゲームのルールは単純なのが一番だ。そんな意味でテトリスは、1980年代後半の日本初登場以来、私のお気に入りのゲームなのである。平面を予め決められた数種類のブロックで充填するという極めてミニマルなルールのゲームで、当時のソヴィエトで開発された時には教育目的だったそうだ。

前述のアドバンス用のカードリッジは、近所のDVDショップで中古品を安価で手に入れたものだ。前の持ち主がプレイした記録が残っており、購入時のHIGH SCOREは、35万少々であった。DSでプレイし始めた時には、この数字にはとても到達できなかった。そもそも、十万オーダーにはとても及ばないという情けない力量だった。しかし途中から、面白いことに気付いた。それは、ゲームの初期設定で、レベルを「最高」に、そして難易度を「Very Hard」に設定した方が、結果として高得点となるという一見矛盾した事実である。

考えてみれば、ハイリスク・ハイリターンということなのだろうが、この設定でプレイし始めてから得点は軽く数十万ポイントに跳ね上がった。そして、つい先日、855ライン、562万ポイントという当初では考えられなかったような結果を得ることができた。これが、どの程度のものなのかについては、判らないが、少なくとも、前の持ち主より一桁上であることは確かだ。

調子が良かったこともあるが、300ラインをクリアするあたりから、私がテトリスをプレイしているのか、テトリスが私にゲームを行わせているのか判らないような状態になる。ゲームのルールは、極めて幾何学的かつ数理的なのだが、プレイしている本人の頭は、そんなことは考えていないようだ。ほとんど脊髄反射的にマシンを操作しており、自分で止めようと意識しない限り、いつまでもプレイし続けることができるような状態となるのだ。こういうのをトランス状態と言うのかもしれない。


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