「minimalvideo」と一致するもの

列車接近表示器



最寄りのJRの駅に、ずっと前から設置されている不思議な表示装置。数年前に駅の改修工事が行われて、電車の発車時刻等がLEDパネルで表示されるようになったにもかかわらず、未だに撤去されずに残っている。

今日あらためて、この装置の背面に貼られているプレートを見ると、「列車接近表示器」と書かれている。メーカーは「交通システム株式会社」とのこと。私は鉄道マニアではないので、詳しいことはわからないが、察するにホームに駅員が立って電車発着時の安全確認をしていた時代の名残なのだろう。

リニューアル工事が行われてからは、朝のラッシュ時でも、ホームに駅員の姿を見かけることはない。昔の駅員の詰め所も今ではもぬけの殻である。それにもかかわらず、この装置だけは、今でも電車が接近すると点滅を繰り返し、「キンコン」という音を出す。なにかとてもレトロな雰囲気である。表示内容も、ホームの両側それぞれに対応して「上」と「下」の二種類でこれまたミニマルだ。

隣の駅では、駅舎の改修が行われた時に駅員の詰め所とともに、この装置も撤去されてしまった。そういう意味では、今となっては珍しい代物なのかもしれない。もはや不要となったものを撤去しないという不作為により本来の機能を失いながら動作し続けるこの装置も、一種の「トマソン」と言うことができるのではないか。

TETRIS:数理と直感

TETRIS.JPG
雨の一日だった。肌寒いので軽く暖房を入れた部屋で、テトリスで遊ぶ。プラットフォームマシンはNINTENDO DSだ。ただし、ゲームカートリッジは、DS専用ではなくゲームボーイアドバンス用のものだ。DS専用のものも手元にあるが、BGMが気に入らない。アドバンス用のBGMの、ちょっとミニマルテクノ風なのが好きだからだ。

元々、ポータブルゲームマシンには興味がなかったのだが、例の「大人の脳トレ」ブームでDSを衝動買いしてしまった。しかし、単純計算を延々と繰り返したり、画面に表示される単語の記憶数を競ったりして、「脳年齢」なるものの若返りを図るというこのソフトの馬鹿馬鹿しさに気付いて、やる気が失せてしまった。

最近のゲームソフトは、CGを駆使した高精細かつ高速なものが多いようだが、正直言って、どこが面白いのか良く判らない。やはりゲームのルールは単純なのが一番だ。そんな意味でテトリスは、1980年代後半の日本初登場以来、私のお気に入りのゲームなのである。平面を予め決められた数種類のブロックで充填するという極めてミニマルなルールのゲームで、当時のソヴィエトで開発された時には教育目的だったそうだ。

前述のアドバンス用のカードリッジは、近所のDVDショップで中古品を安価で手に入れたものだ。前の持ち主がプレイした記録が残っており、購入時のHIGH SCOREは、35万少々であった。DSでプレイし始めた時には、この数字にはとても到達できなかった。そもそも、十万オーダーにはとても及ばないという情けない力量だった。しかし途中から、面白いことに気付いた。それは、ゲームの初期設定で、レベルを「最高」に、そして難易度を「Very Hard」に設定した方が、結果として高得点となるという一見矛盾した事実である。

考えてみれば、ハイリスク・ハイリターンということなのだろうが、この設定でプレイし始めてから得点は軽く数十万ポイントに跳ね上がった。そして、つい先日、855ライン、562万ポイントという当初では考えられなかったような結果を得ることができた。これが、どの程度のものなのかについては、判らないが、少なくとも、前の持ち主より一桁上であることは確かだ。

調子が良かったこともあるが、300ラインをクリアするあたりから、私がテトリスをプレイしているのか、テトリスが私にゲームを行わせているのか判らないような状態になる。ゲームのルールは、極めて幾何学的かつ数理的なのだが、プレイしている本人の頭は、そんなことは考えていないようだ。ほとんど脊髄反射的にマシンを操作しており、自分で止めようと意識しない限り、いつまでもプレイし続けることができるような状態となるのだ。こういうのをトランス状態と言うのかもしれない。


Cellab

Islam5.jpg久しぶりに、セルオートマトンシミュレータの「CELLAB」でムービーを作ってみた。有名なのは、ジョン・コンウェイのライフゲームだが、ルールを変えればいくらでも面白い挙動を示すものを発見することができる。今日は、自作のルールを適用して、ちょっと面白い幾何学模様を生成するセルオートマトンで遊んでみた。

上に示す画像がそれだが、幾何学模様の面白さを示すためには、無圧縮の画像でないとダメなので、AVIファイル形式となっている。WindowsMedia形式では、圧縮に伴う画像の劣化があり、緻密な変化の面白さが判らないのだ。ダウンロードには少し時間がかかるかもしれないが、なかなか面白いので乞うご期待である。

20年ほど前は、このような計算負荷の重いシミュレーションがPC上で可能になるとは、夢にも思っていなかった。当時は、セルオートマトンに特化したPC用のISAボードが、MITで開発されており、私も大枚をはたいてアメリカから個人輸入して使ったものだ。セルオートマトンに特化したボードなので、速度は、当時の汎用スパコンのCRAY-2並みと言われていた。このハードウェア処理によるシミュレーションのパラメータを設定するのに用いられていたのがFORTHという言語だった。私がこの言語に接したのは、その時が初めてであったが、実に奇妙な、そして融通無碍な言語であった。

それはさておき、その後、PCのCPU処理速度が向上するにつれて、ハードウェアに頼らなくても汎用のCPU上でシミュレーションが可能となった。そのためのソフトウェアも市販されるようになり、何と、CADメーカとして有名なAutodesk社から「CA-LAB」というのが発売されていた。まだWindowsが出現する前のことなので、IBM互換PCのPC-DOS上で、これを動かして遊んだものである。

そして、現在、Windows化されたCA-LABが、前述のCellabである。CA-LABは、セルオートマトンのルールをCやPascalを用いて自分で定義することができたが、Cellabも同じ手法でルールを定義できる。上記の画像に用いられているルールは、私がCで書いたものであり、その内容は以下の通りだ。


#include "jcrule.h"

int jcrule(oldstate,     nw,  n      , ne,
                              w,   self,     e,
                              sw,  s     ,  se
            )
int oldstate, nw, n, ne, w, self, e, sw, s, se;
{
    int count;
    static int firstime = 1;

    if (firstime) {
       firstime = 0;
           strcpy(patreq, "islam");
           strcpy(palreq, "islam");
    }

    count = (nw*2 + n*3 + ne*2 + w*3 + e*3 + sw*2 + s*3 + se*2)%8;


    if(((oldstate >> 2) & 0x01) == 0) {
        if(count == 0 || count == 2 || count == 4) {
            if(self == 1) {
                return 7;
            } else {
                return 5;
            }
        } else {
            if(self == 1){
                return 6;
            } else {
                return 4;
            }
        }
    }
    if(((oldstate >> 2) & 0x01) == 1) {
        if(count == 0 || count == 2 || count == 4){
            if(self == 1) {
                return 3;
                } else {
                return 1;
                }
            } else {
            if(self == 1) {
                return 2;
                } else {
                return 0;
                }
            }
        }
}

変数等の詳しい内容は、前述のCellabのサイトにマニュアルが掲載されているので、興味のある人は、参照すると良いが、何はともあれ、オートマトンのムービーを見てみることをお勧めする。こんな単純なルールからは、思いもよらない多様なパターンが展開されるのに驚くことだろう。因みに、幾何学的な文様を次々と生成するので、このルールを「Islam」と名付けた。決定論的でありながら、予測不可能であるというのが、セルオートマトンの面白さだと改めて思う。




トマソン:無意味の意味



吉祥寺の横丁を曲がると、午前中の日射しが真横から射した建物の表面に地名と番地の一部がエンボスとなって残っていた。街で良く見かける焼付け鉄板の住所プレートが剥がれ落ちた後に、それが取り付けられていた外壁の吹き付け塗料の凹凸として、その痕跡をとどめたのだろう。ベージュ色の壁には青い落書きがあり、それが「寺本町」と読める文字と重なり合っている。

何となく、昔はやった「超芸術トマソン」という言葉を思い出した。もっともこれは、超芸術というほど大仰なものではなく、普段なら誰も気にしない程度の壁のでこぼこだ。たまたま光線の具合で、それが浮き上がって見え、その場所を通りかかった暇人の私が、酔狂にも携帯のローレゾカメラで動画撮影したというだけのことである。

しかし、本来何らかの意図に基づいて設置されたものが、もはやその必要性を失ってしまった後も、何らかの形でその痕跡を留め、それを見る側が、それが本来有していたのとは、微妙に異なる意味をそこに見いだすという局面において、これもまたトマソンの一種なのだろう。機能的には無意味と化した何物かが、それでもなお別の意味を持つというのは、意味という言葉の根源にかかわる問題なのかもしれない。学生時代に読んだジーン・ブロッカーの「無意味の意味」という本のタイトルを思い出した。

2003029b.jpg2003029.jpg









昨日の土曜日の午前中は、素晴らしい花見日和だった。季候も良く、近所の桜の大木も満開である。快晴ではなく、白い雲が少しかかっているのも何とも言えない風情があると思う。当分の間は、風雨が強まることはないとの予報なので、花持ちは良さそうだが、そうは言っても桜だ。せいぜい十日だろう。満開を過ぎて、花びらが舞い始めると、それはそれでまた格別の趣がある。たかが桜、されど桜なのだ。

このような、うつろいやすい風物に異常とも思える情緒を見いだすのは、やはり日本人特有の気質なのだろうか。はるか奈良・平安の時代から、桜を愛でる和歌は枚挙にいとまがない。「古文で花と言えば桜」と古典の教師に教わったが、それはちょっと極端にしろ、あまたの植物の中で、これほどの関心を集め、様々な形で表現されてきたものはないことは確かだろう。

と言うわけで、私の好きな和歌を影印本から二首ほど。

waka01.jpg右は「伊達本   古今和歌集  藤原定家筆   久曽神昇[編]」(笠間文庫影印シリーズ)から、左は、「新古今和歌集<上>   穂久邇文庫蔵   伝二条為氏筆   後藤重郎[編]」(笠間書院)からの抜粋である。残念ながら後者はいまのところ絶版のようだ(古書店には結構在庫があるようだが)。

影印本を読むというのは、なかなか面白い。中世には、まだ仮名表記が一定してないので、同じ字母(漢字)から複数のひらがなが生成し(これらを変体仮名と言う)、それらが同じ文書の中で様々に用いられている。国文学者ではないので、詳しいことはわからないが、字母との関係さえ覚えてしまえば、何となく読めるようになってしまうというのが、人間のパターン認識能力の優れたところだと思う。

右は藤原定家、左は二条為氏の筆とのことだが、見てのとおり、定家の方は大らかで自由奔放な印象であるのに対して、為家の方は、生真面目で繊細な印象を受ける。こうした情報は、現在の活字に置き換えられた古典文学書では決して判らない。そこはかとなく本人の人柄が感じられて、こうした影印本を読むのは楽しいものだ。

さて、とはいっても初めての人には、わかなない文字が多いと思うので、現代の活字で表記したものと、変体仮名の字母がなにかを記しておく。(因みに、ボールド+アンダーラインで表記されている部分は、元々漢字で表記されている)


心地そこなひてわづらひける時に風にあたらじとておろしこめてのみ侍りけるあひだに折れるさくらのちりがたになれりけるを見てよめる  藤原よるかの朝臣

たれこめて春のゆくへもしらぬまに待ちし櫻もうつろひにけり

心地曽己奈此天和川良此介留爾安多良之止天於呂之己女天乃美介留安飛多爾禮留佐久良乃知利可多爾奈禮利介留遠見天与女留   藤原与留可乃朝臣

堂禮己免天乃由久遍毛志良奴万爾万知之毛宇川呂此爾介利


皇太后宮大夫俊成
またやみむかたののみののさくらがりはなのゆきふるはるのあけぼの

未多也美武可多乃ヽ美乃ヽ佐久良可里者那由支布留者留安遣本乃


それにしても、私には、これらの歌が中世の無常観といったもので通底しているように思われてならない。藤原よるかは、病床に伏して、壺に活けられた櫻の花びらが散って行くのを見て「今年の櫻の季節も過ぎ去ろうとしている」と詠み、俊成は、「交野のお狩場で再び櫻の花を見ることがあるのだろうか」と詠んでいる。そこにあるのは、この一年間を生きながらえて新しい春を迎えたという感慨と、来年の春が再び自分に巡ってくることがあるのだろうかという茫漠としてとらえどころのない生への不安だ。これは存外、遙かな時を隔てて現代の日本人の感性にも受け継がれていているのではないかと思う。




シュルレアリストの今となっては「古典的」言葉遊びみたいなタイトルだが、何のことはない代々木にあるDoCoMoのビルである。

このビルのデザインが、最上部が電波塔になっていることも含めてマンハッタンのエンパイア・ステート・ビルディングのそれを剽窃したものであることはさておき、どうしてこんな映像を撮影したのかと言うと、まず第一に電車を待っている時間が手持ち無沙汰だったからだ。

次に、(むしろこちらの方が先なのかもしれないが)私がDoCoMoの携帯を使っているからである。などと言うと、訳が判らないことのように思われるかもしれないが、普通は不可視かつ不可知な無線ネットワークが、この時に限り(ほぼ)確実に、空中に敷設された仮想的な通信ケーブルとして認知されたからだ。

ほとんどの場合、携帯電話と無線基地局との間の通信ルートは、利用者には不可視であり不可知だ。確かに道を歩いていると、沿道のマンションのペントハウスなどに基地局のアンテナらしきものが設置されているのを見かける。だが、キャリアはDoCoMoだけではない。auやSoftBankやWILLCOMもそれぞれ独自の無線ネットワークを構築しているのだ。従って、利用者が自分の携帯が送受信する電波のルートを確実に知ることはあり得ないし、そもそも無線とはそういうものだ。

しかし、このビデオクリップを投稿した時、目の前に聳えたつDoCoMoのビルに設置された基地局アンテナに向けて、たかだか300KBとは言え(MTmailの投稿最大容量は300KB以下に制限されている)映像データのパケットが送信されたということは、(ほぼ)確実と言えるだろう。

基地局アンテナの設置されたビルの映像を撮影し、まさにその基地局に向けて、その映像のデータを送信するという行為が、何だか面白く思われた。それは、通常不可視かつ不可知であるはずの無線ネットワークの末端が、仮想的とは言え具体的認知の対象として立ち現れたからかもしれない。



過日、動画を撮影した桜が早くも咲いた。ニュースによれば、今年の開花は例年よりかなり早いとのこと。これも地球温暖化が原因か。

桜二題





昨日あたりから桜が咲き始めた。近所の公園などでもちらほらと咲いている。今週末あたりは、満開になるのではないか。

shadow



影。
午前中に近所のペインクリニックで治療を受けた後、隣の駅まで出て買い物をした。良い天気で暖かく、春の日射しが路面に射している。歩いている自分の影を撮影した。
これだけの情報から何が判るのだろうかと思う。写っているのは、何の変哲もないただの路面だ。私のシルエットがほんの数秒の間その上を通り過ぎる。音声はOFFなので、それ以上の情報は無い。
シルエットから、性別と身につけている物くらいは、推測はできるかもしれないが、場所の特定までは困難だろう。アノニマスな場所のアノニマスな時間。断言できるのは晴れた日であるということだけだ。
と思っていたら、よく見ると映像の左下に指の一部が写っている。最近、機種変更した某社のこのモデルは、カメラのレンズの位置が良くなくて、指がかかりがちなのだ。という訳で、お粗末な顛末となった。

マイカップ



会社の地球環境保護の方針でコーヒーサーバーの使い捨てインサートカップが利用出来なくなった。各自マイカップを用意するようにとのお達しなので、買ったのがこれ。ちなみに、インサートカップは、一個4.9円するのだそうだ。昨今のスーパやコンビニのレジ袋自粛に通じるものがあるが、こうした地道な取り組みを行っても、大量のポリタンクを不法に海上投棄する国があったりすると、虚無感にかられてしまうのは私だけであろうか。
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28  

アーカイブ